父を忘れないと決めた日

はじめに

3月に父が急逝しました。死因は虚血性心疾患でした。

その時のことを何でもいいからまとめようと思い立って、iPhoneのメモ帳にまとめようとしていました。それでも何回も何回も、書いては消して、書いては消してを繰り返していました。この文章が何回目のものなのかは、もう忘れてしまいました。

書いているうちに気持ちが先に溢れてきてしまうし、時系列順に説明してもただ長くなるだけだし、読んでて何の意味があるのだろうと、とにかく悩みました。でも、書くたびに自分の気持ちが整理されていくのは確かでした。この文章がインターネットのどこかにあるということは、たとえそれが何を伝えたいのかわからない、まとまりのない文章だとしても、とりあえずの整理が出来たということになるのかもしれません。

連絡

仕事中に母から「お父さんが死んじゃった」と電話があって、その瞬間は母が言っていることが全く理解出来ず、廊下でしゃがみ込んでしまいました。上司に一方的に連絡してから会社を抜け、実家に向かうことにしました。

実家に着くと、泣いている母、布団で横たわっている父、警察官、医師、母が協力を求めた近所の方々がいて、そのただ事ならぬ空気にまた崩れ落ちそうになりましたが、警察官から今後どうしたらよいか流れを説明され、葬儀屋さんへの相談と調整、病院に死亡診断書作成完了の確認、親族一同への報告連絡と、正直言うと悲しむ余裕もなく全てを対応しなければならなくなりました。 それらがひと段落ついて、ふと落ち着いた瞬間に「もう父と話すことが出来ない」という現実に襲われ、一気に泣き出してしまいました。

医師の話

医師によると、血液検査の結果、亡くなったのはその日の午前6時ごろと推定されました。元々高血圧と不整脈で通院していて普段から薬も飲んでいたのですが、突発的に心臓の機能に影響が出て、結果的にそれが致命傷となったのではないか、とのことでした。私も後から知りましたが、虚血性心疾患というのは突然死の中で最も多い心臓死の一つのようです。

母が仕事で5時過ぎに家を出るときには父も起きていて、出発するときに「気をつけて行ってこいよ」と言われたそうで、これが母が最後に聞いた父の言葉となりました。体調が悪そうにも見えなかったし、本人も何も言っていなかったとのことでした。
母が家を出たあと、再度布団に戻ってそのまま眠ってそのまま起きることはありませんでした。苦しくもなかったのか、布団を掻き毟ったり、蹴った形跡もなく、綺麗に眠っていました。(母によると父は少しだけ二度寝をすることは普段からあったそうです。父は起床後に栄養ドリンクを飲むのですが、その日の分の空ビンも置かれていました。母が出てから飲んだみたいでした)

昼前ぐらいに携帯電話に父の勤め先から着信履歴があったのに気付いた母が、かけ直してしてみると「普段なら一番乗りで出社してくるぐらいなのに、今日はまだ出社していない。何かありましたか?」という連絡でした。
母が仕事を抜けて帰宅してみると、父は布団で寝ていて、「おーい、二度寝してるの? それとも寝たフリ?」と頬を叩いても目を覚さない。起きていることの異常さから「これはまずい。でも、とてもじゃないが、一人では対処しきれない」と近所に助けを求めて回ったそうです。心臓マッサージもしてもらったみたいでしたが、既に数時間経過していて蘇生不可の状態だったようです。
父は軽貨物の運送の仕事をしていて、職場までは原付バイクで通勤していたみたいですが、発作が起きたのが仕事中や通勤中でもなく事故にならなくてよかったとも思えてしまいます。ちなみにその前日も父の運転でドライブに出かけて、花を見て「綺麗だねぇ」なんて話していたそうです。

その後

不謹慎な言い方かもしれませんが、亡くなってから葬儀までトントン拍子で決まりました。亡くなった翌日に一度葬儀屋さんの霊安室に移動し、さらにその翌日に別の斎場に移動して葬儀となりました。
霊安室に移動する際に、葬儀屋さんの男性2名が来たのですが、外に運び出すときに協力させてもらいました。最後にできる親孝行の一つかと思うと自然と身体が動きました。いつのまにか身長も体重も父を追い越してしまった私ですが、ズシリと重かった感触は、消えそうにありません。

霊安室に移されて棺で横たわる父。棺を掴んで「なんで私より先に逝っちゃうのよぉ……置いていかないでよぉ……」と目を真っ赤に腫らして泣いている母。親戚一同も面会に来てくれて、私と一緒に母を支えてくれていました。
ふと父の表情を見ると、棺に入ってる父の表情が変わっていることに気がつきました。死後硬直の影響なのかはわからないです。笑っているような、騒いでいるのをうるさいと思っているような、そんな表情をしていました。「起きるなら早く起きてくれ。悪い冗談はやめてくれ」と思うと、また泣けてきてしまいました。

葬儀前夜、母は寝るのと泣くのを繰り返していました。「私を置いていってどうすんのよ……」と何度も何度も言っていたのが今でも頭から離れません。側に寄って話を聞いてやりました。 私は当日から全く眠れず、その反動で睡眠不足から昼間に少し仮眠するのを繰り返したせいか、落ち着いて眠るのが難しくなりました。父が眠るように亡くなったので、私も同じことになるのではと、寝るのが怖かった時期もありました。最近はある程度良くなってきましたが、正直今でもまだ怖いときがあります。

葬儀には父の職場の人たちも来てくれて、私の知らない父の話を聞かせてくれました。土日や夜勤の仕事の依頼もあったみたいですが「すみません。もう私も妻も歳でして、休みの日はなるべく妻と一緒にいてあげたいんです」と断っていたそうです。それを聞いた瞬間にまた涙があふれました。
葬儀中のことは、何があったかは全て覚えていて事細かに書いていくと際限なく続いてしまうのですが、とにかく「悔しい。どうして父が死ななければならないのか」という気持ちでいっぱいでした。火葬前に花を置くときに、もうこのあとは焼かれるだけだから、後悔しないように触っておこうと顔に手をやると、触れただけで生きていないとわかるくらい冷たくなっていました。やりきれない気持ちでいっぱいになりました。

最後は、小さい箱に収まった父と帰宅しました。

後悔

2年前にメンタル不調による休職を経験し、そのときに両親を心配させてしまいました。それをきっかけに、ドライブも兼ねてと私の住むところまで米、肉、野菜を持って車で来ることが増えました。2月に最後に父に会ったときは、マスクを持ってきてくれました。
葬儀で使った写真は、そのときに撮影しました。父は、自分が写っている写真は破って捨てるぐらい写真嫌いな人で、実家には一枚も残されていなかったのですが、マスクを届けにきたついでに、母がスマートフォンに機種変更したからと使い方をレクチャーしてほしいと寄った近くのファミレスで、カメラの使い方を教えるときにたまたま撮った父の写真のデータが、たった一枚しかない父の写真でした。

無事復帰した仕事で、一つ大きめなプロジェクトをやり終えたばかりで、その報告をしたいと思っていた矢先の訃報でした。
多分、父に見せても「俺にはゲームは分からねえ」「お前が元気ならそれでいい」と言うだけかもしれませんが、それでも良かった。もう大丈夫だよとそれで証明して、安心させてやりたかった。親孝行がしたかった。ただ、それだけでした。多分このことを一生後悔すると思います。

残された母

母は、突然一人になってしまったことにより、泣きながら私のところに電話してくることが増えました。何とかして安心させてやりたいという気持ちから、母が大好きな演歌界のプリンス、山内惠介さんのコンサートBlu-rayとプレイヤーを買ってプレゼントしました。テレビにセッティングしてやると、観てはいましたが、一瞬気が紛れるだけのようでした。

ただ、それでもやはりコンサートは行きたいと言っています。5月に東京で予定されているコンサートに申し込んでいて、生前の父も「俺は留守番してるから行って来い」と言っていたそうで「私がコンサートに行ったほうが、きっとお父さんも喜んでくれると思うんだ」と言ったのに泣かされてしまいました。それも昨今の新型コロナウイルスの影響により、公演中止となりそう(まだ発表がない)ですが、その先の公演に行きたいと言っていたので、少しだけ安心しました。

父の言葉と、これから

父が亡くなってから、いろんなことを話してくれたなぁと思い出します。

「人に好かれようとしなくていい。ただ、嫌われる人になるな。一度嫌われて、そこから信頼を取り戻すのは好かれることの何倍も大変なんだ」

「お前がやると決めたことはことは反対しない。でも、自分でここまでやって終わりにすると決めたところまではちゃんとやるのが責任だ」

「自分が当たり前と思うことが、他人の当たり前じゃないかもしれないことは、この先覚えておいたほうがいい」

私が慣れてしまったせいかもしれないけど、すごいことを言っているとは思えません。だとしても、どの言葉も私にとって大切で、私という人間を作るうえで重要な言葉に違いありません。

色々なところで言われてる言葉かもしれませんが、人は二度死にます。一度目は肉体的な死を指し、二度目は遺された人たちの記憶から消えることを指します。だからこそ、こうした父の言葉を忘れずに生きていこうと思います。これからの私の人生には、まだまだ悩んだり迷ったりすることがたくさんあるはずです。そんな時こそ、父のことや、父が教えてくれたことを思い出して、自分なりに頑張ってみようと思います。

(無理やりだけど、やっぱり書ききれないので、これで終わりにします)